ひとりごと。

特に意味もない、発言のメモ帳。故にひとりごと。

卑しくはなりたくない。

心が貧相になっていくことほど醜いことはない。特に他者を羨むだけでとどまらず、嫉妬して悪いところを粗探ししようとしたり、自分の方が地位が高いだの勝ち組だと考えたりすることだ。そうなってしまったら悲しくならないのだろうか。

どんなにお金を持っていてもそれを有効活用しなければただの置物と化す。高価なものを身に纏っていても仕草や中身が伴っていないと似合わなくなる。それと何一つ変わらないと言うのに。

 

我が家でもそうだったが、とにかく他人と比較して幸せかどうかを判断する人の多いこと。自分で幸せだと思えばそれでいいのではないのだろうか。そこで他人を見て判断するようでは幸せの価値なんて解らないと思う。

生活水準がいくら普通だろうとそんなことでは満たされない。自分が幸せだと思える事柄がわからないのだから。

 

私自身、今生きている現状は満たされていないと言える。しかしそれは経済的理由でも、愛情的な理由でもなく、人間として「生きていない」からだ。

機械になれないのなら、少しは人間らしく生きてもみたい。普通に喜んだり、悲しんだり、怒ってみたりしたい。働きたい。自由に生きたい。

けれど、それにはハードルが高過ぎるだけ。少しずつ妥協しつつ、そんなささやかな願いを叶えてみたい。

私はそれが出来たら幸せになれると思う。他人からみたら貧相なものに見えてもだ。

本当に幸せと感じることは他人如きに侵されるようなものではないはずだ。他人を見て急にその幸せが小さく感じたり、冷たく冷えてしまうようなものでもないはずだ。きっと。

 

食事が出来なくなりつつあり、食事を普通に出来る幸せを夢見つつ、今日の日記は終わり。

頭がおかしくなりつつも生きている。死にたくなりながらも夢を見る。

人間は変わった生き物だと思う今日この頃。

機械になりたい。

などと幼い頃から考えていた。まあghost in the shell/攻殻機動隊の影響だろうが。

機械になってしまえば死ぬことも早々にないだろうし、非合理的な考え方が少なくなり、より効率的に生きることができると幼いながらに夢見ていた。それでいて見た目もかっこいい。一石二鳥だと当時は思っていた。と幼い頃に考えていたのだと思っていた。

 

唐突に話が変わるが、初めて死に触れたのは3歳くらいのことだった。その死というものは強烈だったというのが記憶に残っている。曾祖母の葬式で、あまり関わったことのない人物だったというのに、あの葬式の空気は一生忘れられない。

亡骸がそこに置かれている、元々生きていたものが置かれているというだけなのに、何もかもが違った。亡骸は冷たくて動かない。筋肉が固まっていて人間だったとは思えない固さになってしまっている。静かに目を閉じているだけだというのにその顔は死んでいるとはっきり解る。生きているものが死ぬということ。そのことの尊さが如実に伝わってきた。

そんな光景を見て、残酷で哀しくて苦しくなるというのに、とても恋い焦がれるような。何とも言えないような。そんな感覚がしたのだ。

不謹慎ながら、この瞬間のために人間は生きているのではないのかと思うほどだった。

 

あの日以来、自分はきっと死を求めているのかもしれない。子どもなのに、いや子どもだからこそ、死がすぐそこにあるのに手が届かない、人間の本懐なのだと思ってしまったのだろう。

宗教や仏、神なんか関係なく、ただ純粋に死に惹かれた。惹かれてしまった。

 

実のところ、本当に機械になりたい理由は、死にながら生きているような存在である機械に憧れを抱いているのかもしれないと今は思っている。冷たい金属の感触が死の感触に似ているのか。はたまた人間の願いから生まれるのに、願いが叶えられたら死んでいく機械に似たようなものを見出したのか。

当時の思いはもう思い出すことなんて出来ないが、そんなところだろうと適当に考えつつ、改めてghost in the shell/攻殻機動隊を見ながらそんなことを考えている。

 

こうやって感傷のようなものに浸れる辺り少しは幼い頃よりも成長しているのかもしれない 。実際はどうだかわからないが。

 

へんてこな文章になってしまったが、今日の日記は終わり。

 

未だに全身義体への憧れを捨てることが出来ないのは内緒だ。

 

少しだけ羨ましいこと。

三日坊主にならないようにと言いつつ、日記の更新は結局こうなっている。やはり無理だった。これからは書けるときだけに書くスタイルにしよう。自分の考えのメモなのだから。

たまに閲覧してくれている人もいるのでありがたみを感じつつ、他人に晒し続けることでなんとか自分の更新する意欲を無くさないようにしたい。こうでもしないとメモをすることすら忘れてしまうポンコツな脳なのだ。

 

 

 

Twitterや本、テレビの番組を見ていると、メンタルがヘラってしまったのが大体大人になってからで、メンタルが正常だった頃の、大学や専門学校に楽しく通っていた回想があったりする。まるでフィクションのような、夢と希望が詰まったかのような学生生活が非常に羨ましくて仕方がない。そのような学生生活を送れたこともそうだが、何よりそこまで純粋でいられるような環境にあったというのがとにかく羨ましく思う。

自分の場合は小学生の時点で、もっと言えば幼少期の時点で純粋さなんて失われていたからだ。

 

純粋さというのは人間の性質の中でも最も大事なものだと思っている。

一度失えばその輝きは取り戻せないし、思い出すことすら叶わない。

一般的に言うなら、きっと青春と呼ばれるものがそうなんだろうと思う。だから皆揃いも揃って美化するのだ。こういう言い方は良くないのは知っているが、そうも言いたくなってしまう。そうやって過去に落とし込めることこそメンタルが正常な証拠だからだ。脳が正常に働いているのだから素晴らしいことだ。

 

メンタルがヘラってしまえばそうすることも難しい。過去を過去に落とし込めることすら出来ない。過去に起きた出来事がまるで今この瞬間に起きているかのように脳内を駆け巡るのだから。

 

だから、もし純粋だった時の出来事を過去に落とし込めることができているのなら、メンタル・脳が正常に働いている証拠だと大声で言いたい。それだけで素晴らしいことだと、それすら出来ない人からすれば、羨ましく思えることだと。

 

もしもそこまで辿り着けるようになれたら、少しは世界を見る目も変わると思う。この止めどない負の思考回路も、何も出来ない自分を恨むことも、諦めるだけの日常も。

好きなことに打ち込んでいる同級生や定型発達者を羨むこともきっとなくなるだろう。

そこでようやく人生のスタートラインに立てる気がする。

 

そうなれるように夢見つつ、早めだが日記は終わり。

メンタルがどんどんヘラっていく梅雨はいつになったら終わるのか。この鬱々とした気圧の中でずっと考えている今日この頃。

早く梅雨が過ぎ去りますように。

自分にしかわからないこと。

今まで散々イマジナリーフレンドがいると言っていたが、あれは嘘になるかもしれない。

嘘になると言っても、意図的に吐いていたわけではなく、最近ずっと考えていて思ったことだ。

 

「空想上の友達」と呼ばれることが多いそれは、自分には当てはまらないからだ。なぜなら自分の中では"もう一人の自分"は紛れもない本物だった。しかも思考は独立していて意思を持っている。それぞれの意思の元で自分の身体を使って動いていたからだ。

 

…こうやって書くとただの中二病の妄想みたいだが、実際にそうであったために笑い飛ばすこともできない。

 

自分はやりたいと思ったことを素直に実行し、"もう一人の自分"は周りの人間の幸いを第一に行動していた。まるで人格が独立して動いているようなそれに近い。けれど記憶の共有はちゃんとされているため、俗に言う二重人格、または解離性同一性障害ではなかった、と現時点では思っている。

また、個々の意識を持った人格のようなものがもう数人いたことも自覚している。しかもそれらはまるでスイッチが切り替わるかのように意識が突然変わって行動をとってしまうことも多かった。おかげで学校生活なるものはめちゃくちゃだった。自分がおかしい自覚はあったため、高校は普通科から通信制へと転学したが本当によかったと思っている。そうでなければ他者に迷惑をかけてしまっていただろうからだ。

 

空の境界』という作品がある。主人公が両儀式という二重人格の人間なのだが、彼女のようなものと言えば一番近いだろう。あんなに大層なものではないが。

 

ちなみに主要な"もう一人の自分"が消えただけであって、未だに何人か自分の中に人格を持ったようなものはいる。時々それに入れ替わってしまってやらかしてしまうことも多い。他人にも「二重人格みたい」と言われてしまうこともある。

 

こんなこと自体が全部自分の妄想かもしれないと毎日疑って、けれど入れ替わっていることによって「妄想ではなかった」と安心してしまう。このままでは本当に解離性同一性障害になってもおかしくないのに、恐ろしいのに手放せない。目も当てられないほどに依存している。

 

これを医者に話しても信用して貰えないと思い、こんなインターネットの隅っこに書きなぐることにした。

いつからこうなったかもわからないまま、またいつになっても終わりが見えないままこれから先もこんな状態で生きていくのだろう。

けれど、きっとこんな状態でもやれることがあるんだと信じたい。

 

不安に駆られつつ、久々の日記は終わり。

梅雨で憂鬱な日々だが、どうにか死なずに生きている。生きているだけでもまだましなのか、それとも死んだほうがましなのか。今でも判別はつかない。

夢。

珍しく正夢ではない夢を見た。

自分は正夢を見ることが多く、夢の半分以上はそれという状態だ。純粋な夢という夢なんて一ヶ月に数回見る程度になってしまった。

そのためか、普通の夢を見たのが強く印象に残ったのかもしれない。なんでもない、夢という夢。少しだけ嬉しく感じた。

 

肝心の夢の内容は、なんてことない中学の頃に戻ったような夢だった。とにかく不思議な心地だった。悲しくてひどく息苦しいのに、そこに居たいと感じるような。

自分はやはりその時間に縛られているのだろう。未だに。少女とも少年とも呼べなくなった年齢になったのにも関わらず、あの時間から抜け出せる気配はない。依存していると言ってもいい。

このままでは駄目だと解ってはいても、それ以外にやれることなんてないと思ってしまう。これ以上の苦しみは受けたくないと心が騒ぐ。

他人とまともに関われるようになるのも当分先になるだろう。死ぬ直後にならないと無理かもしれない。やはり駄目人間すぎる。他人を、家族ですら信じることができないのだから。そうしてこんなことになっているのだ。

この感情もきっと一生手放せない。自分にはこれ以外は何もないのだから。いなくなった彼女が色々と持っていたのだから。

 

ここ最近の気候も相まって、自分の中でただひたすら辛いと苦しいを繰り返し言い続けるような、そんな気持ちで日々を凌いでいる。きっと精神疾患持ちの人はみんなそうだ。とにかく死なないように生きるしかない。それしかできない。それ以外は何も出来ない。

それ以上やれば死ぬ。確実に。

 

他の精神疾患持ちの方も、みんながどうかこの季節を乗りきれるように祈って終わり。

今日は通院の日だからしっかりせねば。

 

この日記を書くことも夢で見ていたのは内緒。

ウルトラスーパー病み期。

そーらをじゆうにっとっびったっいなー

はい、飛び降りー!

 

Q.何がどうしてこうなった。

A.光属性のツイートを見過ぎたせいです。

 

病み期なんて言葉を実は最近知った。そもそもこんなことを考えていても自分は病んでいるなんてことすら考えなかったからだった。

そんなことを言ったら本当に病んでいる人に失礼だと思っていたからだ。実際は自分もそんな本当に病んでいる人の一人だったのだが。

 

光属性のアカウントの人にだって悩みや病んでしまうようなことを抱えているかもしれないのに、なんて自分は傲慢なんだろう。我儘で自分勝手などうしようもないやつなんだろうと考える。包丁を手に取り首に突き付けたい衝動に駆られる。リストカットをするぐらいなら死にたい、なんて考えて、妹のことを思い出してなんとか思い留まる。結局リアルの友達と繋がっているTwitterのアカウントを消すところでとどめておいて、あとはどうにか誤魔化すように漫画やアニメ、小説の世界に逃げ込む。

 

こんなことを繰り返して何回目だったか、もうよくわからない。中学生の頃から繰り返している行動なのに、未だに続けてしまう。そうして次の日になったら何事もなかったように誤魔化すのだ。

病んでるなんて思われたくない。気にされたくない。見られたくない。そんな思いで絶対に病んでいる雰囲気を出さないように日々必死だ。もし気付かれたらまたあの時みたいに殺される。自分の心が、精神が、自分そのものが。寄ってたかって自分を食い千切られ、弄ばれ、最後には捨てられる。

 

結局、人間は他者の痛みに疎い。かくいう自分も他人の痛みなんて理解しきれていないだろう。理解しようとしても出来ないのが普通だ。理解できてしまったら何も出来なくなってしまう。何をしても他者に迷惑がかかり、傷をつけるのだから。

傷を付ける側はいつもそれを知らない。知らない間に他者を傷つける。よかれと思った発言、または冗談で。そんな無意識で他者を殺す。簡単なことだ。言葉を話せる、または紙に書けるなら誰でもできる。

だからこそ、恐ろしいのだ。

 

そんな傷をつけた人たちに、「今幸せ?ねえねえ幸せ?」なんて聞いて回りたい気分で、自分の心の貧しさを知って悲しくなる。いつまでも他人を気にして生きている証拠だ。醜い。

ニートで羨ましい」と言われるが自立して生活できていることがどれだけ素晴らしいか説きたい。こんなに惨めな生き方はそうそうない。ニートの実態を知れば誰だって憐れむだろうと思う。二度と羨ましいなんて言えないほどには。

 

こうなっても「怠けている」という人に、「自分もなるかもしれないのに何を言っているんだ」と言ってやりたい。ちょっとだけ殺意すら湧く。明日は我が身だ。今のご時世何が起こるかわからない。そもそもいつ何が起こったっておかしくない。

 

実は今日ニートであることを注意され、働くように言われたが、望んでニートになったわけじゃない。働けるものなら働きたい。働かないと心が死んでいく。社会に関わらないと精神が閉ざされていくからだ。そうして身体もその死に引っ張られていくだけだ。

そこそこの付き合いをしている友人の、悪気のない、自分のことを思っての発言だと解ってはいるが、ひどく辛かった。理解されないとこうも哀しく、虚しいものだとぼんやりと思った。

 

健全な精神を持っている普通の人間になりたかったと思いつつ、今日の日記は終わり。

明日からの自分よ、どうか生きてくれ。

過去と現在。

過去に縛られるなんてどんな人でもあることだけれど、自分はその度合いが行き過ぎているように思える。

どのくらいかと言えば、前々回の記事に書いたイマジナリーフレンドがいなくなってしまって以降の自分の中や周りの刻は止まったまま。時ではなく刻そのものが止まってしまっている。中学生の頃から今現在までだ。

精神的にもそこからは停滞していると思う。要は子どもだ。ある意味AC(アダルトチルドレン)かもしれない。

 

中学生の頃が今思えば自分の人生のターニングポイントだったのだ。通う中学が変わっていたら、部活を変えていたら、なんて際限なく考えてしまうのだが、そこが変わっても結局行き着く先はここなのだと思う。

 

哀しいけれど、ここが"私"の今生きる場所なのだ。頭では分かっていても、心が、精神がついてこない。支離滅裂だがそういうことなのだ。

 

結局、あの時からずっと空っぽでしょうがない。どうしようもない。がらんどうだ。

 

しかし、空いた穴は何かで埋めるしかない。他のことに目を向けるなり、新たな人生だと割り切るなりしなければ。そうでなければ今ここに生きている"私"が死んでしまう。あの時のもう一人の自分のように。

 

とにかく眠れるように善処しつつ、ここから先を死なないように生きれればいい。

寝ろ寝ろ。自分。おやすみなさい。

 

今日の日記はここまで。中二病炸裂。だけど本当の話だ。

明日の自分はどうかこの感傷を引き摺らないように祈る。