ひとりごと。

特に意味もない、発言のメモ帳。故にひとりごと。

そういえば。

もう梅雨の季節なのだが、うつ病の強敵であるこいつが自分は大嫌いだが大好きでもある。

雨自体は嫌いじゃない。町のきつい臭いをかき消してくれるし、音も好きだからだ。ただそこに湿気が加わるから苦手なだけだ。湿気は三半規管が狂う感じがするし、纏わり付くような暑さがある。さらには本が湿気てしまう。洗濯物が乾きにくいのもあまりよろしくない。必要以上の湿気は人類の敵だ。雨だけ降って湿気が無くなればいいのに。

 

6月に入ってからというものの、精神的にも肉体的にも安定していない。気圧に振り回されっぱなしだ。さらにそこに生理というとどめの一撃。こんな勝負勝てるわけがなかった。

とにかくこの時期は大人しくしているのが吉だ。下手にいろんな行動を取ろうとすれば、疲労が蓄積され徐々に頭がおかしくなって、それをひたすらに引きずってまたうつになるのだから。

 

積み小説と積みゲー、他にも色んなものが積み重なっているが、未だにやれる気配がしない。やりたいことは多いがやれるほどの体力がない。オタク活動も気力と体力がいるのだ。

 

とりあえず寝る。寝ます。自分でも何を書いているのかわからない。

次に起きたときの自分がこの日記を見て、この適当さ加減に少しでも笑って気が楽になってくれれば幸いだ。

 

これで日記は終わりとな。

 

 

 

ここ最近。

体調不良の極みだった。元々聴覚過敏な傾向があるせいか耳鳴りが酷いと寝付けなくなる。しかもめまいのおまけ付き。こんなものどうして世の中にはあるのか。

日記は決して三日坊主ではなく、書こうとしても書けなかっただけだから許していただきたい。過去の自分と未来の自分よ。

 

最近ずっと思っていたのだが、自分はかなり少数派なのかもしれない。何の話かと言うと、イマジナリーフレンドについてだ。

想像上の友達、実在しない友達とも言えるそれは、自分が物心ついたときから居たものだった。私の場合、もう一人の自分のようなものだったのだが。ちなみに過去形なのは、そんなが彼女は、とあることで死んでしまったのだ。

色々ありすぎたので割愛するが、その後から自分の心にぽっかりと穴が空いたようになって、今日まで生きた心地がしなくなる程度には大事な存在だった。彼女が居たからこそ、自分はどうにか形を保って生きていたのだ。これから先も、そんな自分の一部であった存在を忘れることはできないだろうし、あれほど安心感を得られる信用のできる人物もできないだろうと思っている。

 

こんなことを知り合いにおいそれと話すわけにはいかず、ここにこっそり書き記すことにした。どうか彼女に対する供養にでもなりますように。

 

眠いので日記はここまで。ちなみに空想上の存在をイマジナリーフレンドということを知ったのは最近なので、色々と理解できていない部分も多い。もっと調べねば。

当事者にとってそれは本当に存在したものであって空想上の友達なんてものではないのだが、こう言い表す以外には何もできない。それが少し悲しい。

独りでいること。

周りのリアルフレンズが病んでます。5月病だな。

ということで、今日は少しだけ重い話を書き記すことにしよう。

 

唐突だけれど、自分はどうやら"独り"でいることが好きらしい。強がっているわけでもなく、かといって中二病特有のそれではなく。ただ純粋に独りでいることが好きなようだ。

独りでいると、そこでようやく「私」という存在が生きているような気がするのだ。独りでいてはじめて自分を認識できると言っていい。さらに「私」は孤独だと痛感できて、心がすうっと気持ちよくなるような感覚になる。

逆に他人と居ると何故か酷く自己が曖昧になる気がする。「私」が形を保てなくなるような何か。その何かが他人と居ると生まれて自分に擦り寄ってくるような気がする。

 

元々、自分は人そのものが苦手だった。何を考えているか分からない、何をするのか予測不能、そうして自分への影響。それが何よりも恐ろしかった。

だからこそ、余計に独りでいることに安心感を覚えるのかもしれない。

また、自分にはもう一人の自分(イマジナリーフレンドに近いものかもしれない)がいる。そのもう一人の自分と会話したりするのが楽しかったのだ。今は訳あって居なくなってしまって、代わりに新しい自分がいるのだが。

そこで自分と対話することによって、安心感を得ているのもあるだろう。

 

独りでいることは世間一般では良くないことだとされているが、自分はそれでもいいと思う。むしろ、ネットやLINEで誰とでも気軽に繋がれる今だからこそ、独りでいる時間が大事だと思う。

いつまでも他人と繋がっているなんて、本当に気味が悪いことだと思うからだ。

意図せず監視社会になりつつある今、独りである重要性が解る人が少しでもいればいいが。

 

中二病のポエミーさを前回にしつつ、今日の日記は終わり。

 

ニートが考えていることについて。

必死に働いている人には失礼な内容になるだろうけれど、ニートは別に働きたくない人だけではないと思う。かくいう自分も世間一般から見ればニートである。実際は家事や買い物も少しだけだがやっているため厳密に言えばニートではないのだ。

 

そもそもニートとは"就労や勉学もしておらず、家事などの家族の手伝いもしていない人"(面倒なのでかなり要約した。間違いがあったら指摘してほしい)を指すのである。これを基準に考えると、本当にニートな人は少ないのでなかろうか。

 

引きこもりの人はどうしても実家暮らしになってしまう。そうなるとどうしても家族の手伝いぐらいはしなくてはならなくなってしまう。働かざる者食うべからず、なんて言葉があるぐらいだ。洗濯物を畳んだり、食器を洗ったり、掃除をやったり。これらを少しでもやれば、ニートの定義から外れる。じゃあお前はなんだと言われたら言い返せないが、ニートではないことは確かだ。ただ、日本の世間一般では働いていない=ニートという安直な考えが浸透しすぎてしまっているだけだと思う。あとは便宜上ニートの方が分かりやすい。

 

じゃあなんで働いていないんだ、と言われたら正直困ってしまう。色んな原因があり、しかも人によっては複数あることもあるからだ。自分も精神障害を主な理由にしてはいるが、他にも原因がなくもない。他人においそれと言えないだけだ。

 

ここまでだらだら書いてしまったが、要はニートにもそれなりの理由があるのだ。働きたくない、朝起きるのが面倒。そんなサボり魔みたいなニートは今は希少な存在だ。そもそも人間は怠惰ではあるが働く生き物だ。働くことそのものが嫌いな人はそこまでいないはず。

また、ニートは家にいる分、ネットやニュース、本で情報を収集している。そうすると知識だけが増えていって行動が伴うことが少なくなり、その不安で社会に出ていくための自信を失っていくのだ。さらに知識だけがついて技術がついていかない場合もある。そうなるとどん詰まりになる。色んなことを知ってはいるのに、それを活かせる場所がなくなる。そうして匿名で発言できるネットにのめり込んだりして、さらに働きづらくなる。負のスパイラルだ。

 

冷静に世の中を見ていることが多い、希望を抱けないニート。見た目だけでは怠けているようにも見えるが、我々は色んなことを考えていて、考え過ぎるからこそ動けない。そんな現状を誰かに知ってほしいと思う。

理解はしなくてもいい。けれどこんな考えもあると言うこと。それだけが伝われば幸いだ。

 

以上、ヒキオタニートの言い訳でした。

 

ベルソムラ君を頼りに今日も寝れるように祈りながら、日記は終わり。

やらねばならないこともあるのだから、少しだけ頑張れればいいな。

 

 

言葉の重みと呪い

物騒なタイトルで失礼。だけどここ最近ずっと思っていることがあって、書かずにはいられなかった。

 

言霊、という言葉がある。言葉には魂が宿っているというあれだ。年配の人が子どもを窘めるときによく使うが、馬鹿にできなくなりつつある。

元々自分は言葉には気を遣っている(つもりかもしれない)方ではあるが、言葉は人を気遣い、幸せな気持ちにさせたりすることもある。しかしときには人を縛って呪い殺す力を発揮したりもする。インターネットで言葉を気軽に発信できるようになった今ではその重みも薄まりつつはあるが、結局人知れず誰かの命を救ったり殺したりすることができるのは変わらない。むしろそんな恐ろしいことが気軽に出来るようになったとも言える。

 

自分の話になってしまうのだが、私自身の家庭が祖母中心なこともあって、祖母の言葉は家族全体に影響を与えることが多かった。そんな祖母の決まり文句が「他人に迷惑をかけないように」だった。それは社会で暮らすのには大事なことということは重々承知をしていたが、いざその言葉通りに生きようとすると何も出来なくなるのだった。人間は何をしても、意図せずにも関わらず誰かの迷惑になるのだから。

また「大学へ行って、会社に勤めなきゃいけない」と言われ、その通りに育ってしまった。幼い自分にはそれが正しい答えなのだろうけれど、あくまで"自分"の人生を生きねばならないこの世界ではその考えは不要になることもあるということに、うつになる前は気付けなかった。

それらだけが人生ではないと解っていても、未だにその言葉が呪いのように首に巻き付いて縛りつけている気がする。家族の言葉だから尚更だ。

 

話を戻そう。

つまり何が言いたいかというと、無意識に吐いた言葉が他人を呪い殺す、という恐怖が自分の中にあるかということを問いたかった。

その恐怖を忘れてしまっているのなら、発言は一旦謹んで自分と向き合った方がいい。自分のためにも、他人のためにも。

 

近年、twitterや掲示板、LINEでの会話が激しさを増す一方で、他人に対する配慮がかけつつある。物事の境界線が曖昧になっているせいでもあるだろう。しかし、それが他人を言葉で呪っていい理由にはならない。

匿名性が高いインターネットで発言しようと、それは自分が発言したことに他ならないのだ。だからこそ、今このときに"言葉の重み"を改めて考える必要があると思う。

 

未来の自分がこの日記を読み返して、少しでも言葉の重みを思い出してくれればそれでいいと思う。ついでに誰かにもこの想いが伝わればなお良いが。

 

(なんて、偉そうに言うニートであった。ちゃんちゃん)

 

今日の日記は恐らくここまで。二日目だがまだ続けていけそう、な気がする。

頑張れたら、また明日ひとりごとを書き流しにくるか。

 

 

 

こんな時間

色々とやっていたら、気付いたらこんな時刻に。

 

最近は夜の方が涼しく静かな為か、聴覚過敏な自分は完全なる夜型人間と化している。そのほうが過ごしやすいし、そうでなければ生きるのが圧倒的に辛いからだ。

夜型なのはよくないと周りから言われるが、それで元気に過ごせているのに何がいけないのか、と考えることも多い。無理やり朝起きて日々体調が悪いまま過ごすのと、夜型だが体調は安定しているのはどちらがましなのか。

 

甘えという声もよく聞く。努力が足りない、根性がないということも言われる。けれど考えて欲しいことがある。人それぞれという言葉があることを。

昼間の喧騒が耳に辛くなり、起きているのがやっとで、どこかに出掛けるのはものすごくしんどい、死にかける、という自分が、ようやくどうにか息ができるような過ごし方を見つけたのだ。それだけは認めてほしい。

 

まあ、働いてはいない口が何を言うかと言われればお手上げだが。

 

自殺衝動も収まっていて、自分で色々と動けるようになっているだけでもましだと思いながら、今日の日記は終わり。

 

家の中でも働ける仕事を見つけるようになれればベストだなぁ

とりあえず。

やってみることに。はじめまして。怜と申します。敬語は堅苦しいのでここまでにしておきましょう。

三日坊主にならないように、また自分自身の状態のメモのためにも少しは継続することを頑張ろうと現時点では思っている…はず。

Twitterで呟くのは手軽だけど、すぐに自分の発言が流れてしまい、何を言ったかなんてすぐに忘れてしまうのだろうし。

実質、日記とは自分の過去との交換日記にも近いのかもしれない。(某メンヘラ先生が漫画を出していらっしゃるからあまり大声では言えないが)

自分の発言を振り返りつつ、少しずつでも日々に変化があるような日記になることを願う。